手稲 of 家系図作成ポータル

家系図作成ポータルFamily Archives
kakeizu.jpn.com

I TOP I site policy I contact I
since 2011 家系図作成の為の情報交換サイト
印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

HOME > 郷土 > 手稲

郷土


手稲 (現:北海道札幌市)

手稲という名のおこり

「手稲」とは、もともとここに住んでいたアイヌが付けた名前です。
アイヌ語で「テイネテ」が手稲となっており、「テイネテ」は「山に霧がかかり、常に湿っている所」という意味です。
明治五年に移住してきた白石藩士がそれに漢字を当てはめ「手稲」としました。

また、「発寒川」はアイヌ語で「ハチャムペツ」といい「桜鳥の多い川」という意味です。

ページの先頭へ

「手稲」地区の呼び名

移住のときの故郷の名をそのまま用いた「福井」「山口」、村の位置から名付けられた「東」、土地柄を表す「西野」「宮の沢」、農民の願いを表した「平和」「富丘」「稲穂」があります。

開拓者

上手稲地区は発寒のとなりの土地として、東北や北陸の人々に知れていたようです。慶応二年(1866年)に発寒村の福玉仙吉と陸中の中田儀右衛門が上手稲村に移り開墾作業を始めた。

明治4年には越後から森三吉石野平八郎熊倉久蔵池田松五郎栗田甚太郎の5戸が西野の入口(バッカウス)(現在の西野二股付近)移住し開墾を始めた。
明治5年には仙台藩士三木勉を取締役とし上手稲に241名が移住し村を形成しました。

「平和」地区

この地区では、明治17年に山口県より春木屋孝造・春中島太郎・石井助太郎たちが入植。そして明治19年福井県越前より13戸が入植してきました。
しかし、この地区は明治17年以前より開墾が始ったと考えられます。その根拠は、宇佐八幡の神を祭った祠があり明治二年より初まる」と記されているからです。

明治39年頃安井左右衛門ら6戸が入植して来ましたが、山火事が発生し被害を受けました。

LinkIcon前のページへ


|1|

次のページへLinkIcon

CornerTopic

話題募集

このサイトに掲載したい
話題(原稿)募集

LinkIcon詳しくはこちら

メンバー募集

同姓メーリングリストへの参加者を募集しています。

LinkIcon詳しくはこちら

ページの先頭へ

LINK



相互リンク先を募集しています。